高村光太郎師は美術界で彫刻の巨匠として名を成し、文芸においてもロマン派の詩人、雄渾な詩で知られ、現代流行語で言えば二刀流の達人でもあったといえよう。
しかし、アジア太平洋戦争を開戦当時から、日本の聖戦と断じ、戦争遂行を賛美する詩を次々と発表し、それを読んだ多くの若者が戦火に散っていった。
昭和20年、岩手県花巻に疎開の為移り住んでいた光太郎師は敗戦に際し、自分は前途ある多くの若者を戦争に駆り立て散華させてしまった。 こうした峻烈な内省のはてに「俺は表舞台には決して出れぬ人間なのだ」と、旧太田村の山中に隠棲した。
北杜夫氏はナチス・ドイツ下の強制収容所に押し込められたユダヤ人たちの希望と絶望の相反する心理の葛藤を描いた「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞。 一方でどくとるマンボウシリーズなどのユーモア小説でも知られた、人気作家である。
この北杜夫氏がまだ無名の斎藤宗吉といった若き時代、太田村に住む高村光太郎師に手紙を書き送ったことが、どくとるマンボウ青春記の一ページに記されている。 はたしてや、高村光太郎師は届いた手紙を読んだであろうけれど、この無名の(有名な歌人・斎藤茂吉の次男とは知る由もなく)青年に返事を出すことはなかったようだ。 大方、囲炉裏の焚き付けにでもしたのだろう、とは北杜夫氏の述懐。