江戸時代後期、1804年に花巻で開かれた鍛冶町焼(かじまちやき)。100年以上多くの陶器を作り続けましたが、1943年に廃窯となります。
4年後の1947年、栃木県の益子で修行した阿部勝義氏が鍛冶丁焼(かじちょうやき)として復興。現在は日常で使う器を中心に、2代目阿部太成さんが作陶しています。
今回は鍛冶町焼の復興と継承、現在の作品について阿部太成さんにお話を伺いました。
花巻で古くから続いた鍛冶町焼
鍛冶町焼は、1804年古楯伊織(ふるだていおり)が鍛冶町(現在の花巻市藤沢町)に窯を開いたのが始まり。古楯家の資料(文書)によると、花巻人形を製造していた古楯家に、1801年林の目(現在の一関市山目)の林之助という者が訪れ、彼から伝授を受けて始まったとされています。*¹
4代に渡って盛岡藩の御用焼物師として勤めていた古楯家。花巻は盛岡藩に焼物のまちとして認められていたといいます。主に皿、丼、瓶、片口、徳利、擂鉢(すりばち)など、日用雑器を生産していました。*²しかし、明治末期に本家が廃業、分家も戦争によって後継者が途絶え、1943年に廃窯となります。
*¹*² 参考
小原茂さん(2011)「鍛冶町焼 古舘家文書について」,『花巻市博物館研究紀要第7号』pp.25-41,花巻市博物館。
当時、「花巻粘土」と呼ばれたことから分かるように、花巻には田んぼが多くありその下土に粘土が埋蔵されていました。その粘土を使い、瓦やレンガを作る工場もありましたが、特に品質の良いものは陶器に利用されたようです。
鍛冶町焼の復興
鍛冶町焼廃業4年後の1947年、阿部勝義氏が5年ほど益子で修行したのち、花巻市石神町・滝ノ沢で「鍛冶丁焼」として再興させます。
粘土、釉薬の原料や登り窯での焼成など、鍛冶町焼の製法を引き継ぐこととなります。
鍛冶町焼の釉薬は、白・黒・緑の色合いが基本です。地元の藁(わら)や籾殻(もみがら)の灰、木灰、長石を基本とし、基本釉の白に銅や鉄で緑や黒に発色させます。
阿部勝義氏も開窯当初は鍛冶町焼のような渋い色合いの釉薬を使っていましたが、時代とともに緑系の釉薬を配合で作り出しました。また、主に甕(かめ)を作っていましたが、時代に合わせてマグカップなどの日用雑器も作り始めます。
受け継がれる登り窯
鍛冶丁焼2代目の阿部太成さんは、高校卒業後に制作を始めます。花巻で勤めながら兼業で制作を続けた太成さんは退職後に窯を現在の湯口蟹沢(花巻南温泉郷入口)に移します。先代、石神の窯は地震で全壊。工房の周囲に家が建ち、窯焚きが難しくなったことからの判断でした。
現在の窯は太成さんが2年かけて制作したもの。先代の窯の作りに少し改良を加えて完成させました。
鍛冶町焼の時代から登り窯というのが特徴という太成さん。「昔の人はこういう窯で焼いてたんだよ、という窯を残しておきたい」と、思いを込めています。
この登り窯を利用して、マグカップ、湯呑み、徳利、ぐい呑み、ビールカップ、花入、小鉢、茶碗など、日常的に使う器を作る太成さん。使いやすい器を追求し、重さ、大きさ、触り具合を考えながら制作しています。
制作体験
鍛冶丁焼では制作体験を行っております。現在の実施状況はこちらをご覧ください。その他、電話でのお問い合わせも受け付けております。
太成さんの思い
鍛冶町焼、鍛冶丁焼として続いてきたものだから、まずは繋いでいこう。
焼き物ができる環境だけは作っておこう。
焼き物は肌合いとか、大きさとか、実際触って見てほしいという太成さん。
粘土の採取から、釉薬の調合、成形、登り窯での焼成まで全て行い、その一つ一つの工程が合わさって生み出される作品。ぜひ工房で見て触れて、自分好みの器を見つけてみてはいかがでしょうか。