【メイン写真】萬デザインのロゴの看板をもつ、専務の佐々木洋平さん。去年、商店街にあった元荒物屋で掃除中に見つけられ、ゆずり受けたものだ。初代の萬への「奉仕」が、こんなかたちで返ってきた。
町の暮らしとともに
昭和の佇まいを残す東和町土沢商店街。明治39(1906)年創業の佐々長醸造は、この地で町の移り変わりをみつめてきた。通りに面した店の裏手、高台にある萬鉄五郎記念美術館へつづく上り坂ぞいに、味噌蔵、醸造所がならんでいる。坂を歩くと、濃い醤油の匂いがたちこめてくる。
「うちの醤油はずっと佐々長さんだから」「うちのおじいちゃんは、佐々長さんの味噌じゃないとだめなの」「佐々長さんのつゆにしたら、もうほかの使えないわ」
町の人たちは親しみをこめて「佐々長さん」とよぶ。
2015年、復興庁主催の「世界にも通用する究極のお土産10選」に選ばれるなど、岩手を代表する銘品の「老舗の味つゆ」をはじめ、早池峰山の湧き水と岩手の豊かな大地が育んだ大豆で作られる醤油や味噌は、昭和2年の販売開始から90年あまり、町の人たちの暮らしによりそってきた。
ロングライフデザイン
笹の葉に丁の字をあしらったロゴ。萬鉄五郎デザインであることは意外に知られていない。近代絵画の革新者・萬鉄五郎(1885~1927)は、土沢生まれ。萬鉄五郎と幼なじみだった、初代佐々木長助氏のお話を、ひ孫にあたる、専務の佐々木洋平(35才)さんにうかがった。
「長助は奉仕好きで、萬さんが若い頃、土沢のあちこちを転々としながら絵を描いていた時期、蔵を使わせていたようです。そのお礼に、まだロゴがないだろうと、デザインしてくれたと聞いています」
長助氏が、当時無名だった萬の才能を見抜いていたかどうかは分らないが、絵も何点か持っていたようだ。2013年、見つかった水墨画を、洋平さん自ら出演して、人気テレビ番組「なんでも鑑定団」に鑑定を依頼したところ、80万円の値がついたことは、町でちょっと有名な話だ。現在、佐々長が所有していた作品はすべて萬鉄五郎記念美術館に収蔵されている。
土沢っ子の地元パン
佐々長の隠れたロングセラーが調理パンだ。コッペパンに春雨をはさんだ「シルバーサンド」、意外とクセになる「卵とジャムサンド」。毎朝、店員が8時の開店にあわせて作る。秘伝のレシピは40年前から受けつがれている。初めて食べたとき、懐かしい味がしたのは、そのせいだろうか。
「2代目の連太郎が『地元の人たちに美味しいものを食べてもらいたい』という思いで始めたようです。だから、値段も安くおさえてるんです。昔はショーケースにズラーっと並んでました。お年寄りのお客様が『懐かしい』と言って買ってくださいます」
「奉仕なき事業に繁栄なし」
若い洋平さんの口から何度か出た、「奉仕」という一見古臭い言葉。聞けば、「奉仕なき事業に繁栄なし」が社訓だそうだ。この企業姿勢がもっともあらわれたのは、2011年3月11日、津波で工場と店を流された、陸前高田市のヤマニ醤油への支援だろう。泥の中で奇跡的に見つかった配合票をもとに、佐々長の蔵を使って、ヤマニの醤油を製造しているのである。
震災のわずか3日後、安否を知らせるためにもうけられた衛星電話を使って、ヤマニの社長、新沼茂幸氏が、4代目現社長、博氏に支援をもとめてきた。「レシピもあります、従業員も無事です、佐々長さん助けてください」。博氏は即決したそうだ(塩沢槙著『明日へのしょうゆ』(マガジンハウス)に詳しい)。かたわらで見ていた洋平さんには、どのように映っていたのだろう。
「心配のほうが大きかったです。ヤマニさんとうちとは醤油の作り方が違うんです。ヤマニさんの味を再現できなかったら、ヤマニさんにも迷惑がかかります」
博氏が即決できたのは、現工場長の畠山了一氏という、現場を託せる、蔵を知り尽くした職人がいたことも大きかった。この道30年の畠山氏は、ヤマニの職人と協力しながら、新しい味に挑戦し、ヤマニの味を再現することに見事に成功した。以前と変わらない味は、陸前高田の人たちにどれだけ希望を与えたことだろう。
「やり遂げた畠山はうちの宝です」
畠山氏のお父さんも佐々長の工場長。佐々長の敷地内で育ったという。その家族のような畠山氏を「宝」と気づいた洋平さん。支援をとおして、利益以上の、大きなものを受けとったにちがいない。
「奉仕」。今風にいうと「ソーシャル」。古くて、あたらしい価値観を受けつぎながら、「外部に切りこんでいきたい」と、洋平さんはアジアへの販路拡大にも意欲的だ。佐々長の理念は、土沢の町で、そして今後アジアで、どんなふうに発酵し、熟成してゆくのだろう。