花巻の中心市街地がどこか、市民のほとんどは上町と答えるのではないだろうか。しかし実は1591年(天正19年・豊臣秀吉の時代、千利休が切腹した年)に花巻城ができた後、真っ先に城下町として整備されたのは四日町だった。当時の四日町は今のメイン通りではなく、花巻信用金庫四日町支店を花巻神社方面に曲がって最初に右に曲がった道。今のように一日市からまっすぐ続く四日町の道路は明治の頃に整備されたようだ。
その記述が旧四日町の通り沿い、消防団屯所の入り口の案内板にある。
◆消防団屯所前にある花巻城下町発祥の地説明板
その後、1526年(慶長18年・徳川家康の時代、大坂冬の陣の前年)に一日市、八日町(のちの川口町、今の豊沢町?)ができて、花巻城下が形成されたとのこと。そんな経緯で、明治の頃まで「花巻」といえば四日町、一日市のことだったらしい。代表的な豪商もこの両町にあり、南部藩主が江戸に参勤交代するときも、宿泊は一日市に作られた御仮屋だったとのこと。1876年(明治9年)に当時の天皇が東北巡幸したときも、宿泊した行在所(あんざいしょ)は四日町に作られた。その記念碑も残っている。
四日町から北側は、また今の道路に戻る。現在「四日町二丁目」バス停がある赤沼商店のあたりはかつて栗木町といったらしい。その名の由来はわからないが、想像するに、近くにあったといわれる稲荷社か広隆寺、順覚寺あたりに大きな栗の木があったのではなかろうか。
その先、自性院の入り口から後川あたりまではかつて小久保町(もしくは小窪町)と言った。これもその名の由来はわからない。
後川から北側(四日町三丁目あたり)は川原町と言っていたとのこと。その名の通り、後川の川原が広がっていたのだろうと想像する。なおこの後川は四日町、一日市の東側を流れていたかつての瀬川に合流していた。戦後瀬川は現在の本館の方に切り替えられたため、後川のままでイトーヨーカドー脇から城跡下へと流れている。
さて一日市の南側だが、徳富歯科前から吹張町に通じる道路(新道)ができたのは1885年(明治18年)のころ。その時に新しくできた道路を100年以上経った今でも「新道」と呼んでいるわけだ。明治18年といえばまだ東北本線が開通する前。135年も前にできた道路をいまだに「新道」と言っているのは面白い。
新道ができる前、徳富歯科がある交差点から花巻小学校方面に道は曲がり、さらに今の工藤医院のところから右方向に直角に曲がっていた。これは敵に攻められないようにとの配慮から人為的に作られた道路で、カギ型に曲がっていたため鍵町と呼ばれていたらしい。
工藤医院から曲がって行った先に、まなび学園と旧総合花巻病院の間を通る細い急坂がある。どうやら新道ができるまでは、その坂が川口町との唯一の連絡道路だったようだ(花巻小学校からイトーヨーカドー方面に下る早坂は城の早坂御門があったため、通常通る道路ではなかった?)。1876年の明治天皇東北巡幸のときも、天皇を乗せた馬車がその狭い急坂を苦労して下りたとの記録がある。新道ができ、駅から下ってくる坂ができて、その交差点から一日市までは坂本町と呼ばれるようになった。それは今もまなび学園裏にある坂本稲荷神社が由来だろうと思われる。
なお、東北本線が盛岡まで開通し、花巻に駅ができたのは1890年(明治23年)。その際駅舎の土地を提供したのも、公共交通機関の大切さにいち早く気づいた四日町の豪商だったとのこと。そのため、現在も花巻駅は上町方面より一日市、四日町方面の方が近い。開業後、旅客輸送、物流の拠点と気づき、駅前で旅館業や運送業を始めたのも一日市、四日町の人々であったという。