郷土資源(歴史・文化)を未来につなげる
花巻史談(しだん)会は昭和50(1975)年に設立し、令和6(2024)年度で50周年を迎えました。
花巻の歴史の研究・発掘と普及を通じて地域文化の保存・継承・向上に寄与する団体です。
郷土史に関心がある会員により年1回機関誌を発行しています。令和6(2024)年度は「50年の歩みを顧みて」をテーマに50周年記念特集版を発行しました。
内容 ●史談会50年の歩み(総目録、活動記録) ●史談会先史について ・第一次/明治44(1911)年~ ・第二次/昭和8(1933)年~ ●花巻の中世史 花巻城、南部政直四百回忌、和賀稗貫一揆等 ●近現代史 新渡戸稲造、核廃絶活動、高校野球史など ●その他 |
郷土史講座(令和7(2025)年4月・公開講座)
これからの史談会
昭和50(1975)年の花巻史談会の創設者の熊谷章一先生は、花巻北高校など県内の高校の教諭を務め、昭和33(1958)年から昭和55(1980)年まで、花巻市史の編さんをほとんどお一人で担当し、急逝によりその後の市史は未完に終わっています。それから40年以上経て、花巻市は令和5(2023)年ころから、新たな市史編さん事業に着手し、約10年後の刊行を目標にしています。
〈新たな試み〉
花巻には近現代史(特に昭和・平成史)に関する本や資料がほとんどありません。将来のまちづくりや都市計画を考えるためにも、郷土の近現代史を市民が共有することで、未来の道しるべとなります。一般講座の開催、ホームページ作成と発信、聞き書きによる記憶を記録に残す試みなど、昨年から新しい企画を始めています。花巻の「野球」の歴史などのスポーツ史の発掘など、会員以外の方や若い世代にも「親しまれる郷土史」づくりを進めていきます。
50号機関誌の論稿を一部紹介
〈花巻の高校野球史ザックリ〉
昭和35(1960)~昭和45(1970)年代は、盛岡一高をはじめ、一関一、福岡、遠野、盛岡商、黒沢尻北等が古豪として県大会強豪高の上位にいて、花巻勢も躍進しています。その当時は、花巻北高が3回、花北商(花北青雲)が1回甲子園出場を果たしました。
昭和50(1975)年ころまでは、夏の甲子園はまだ「1県1校出場」ではなく、岩手県勢は県予選大会で勝ち残っても次は第二次予選「北奥羽大会」で、隣の青森県の覇者に勝たなければ甲子園出場の切符を獲得できない時代でした。
岩手県勢は長い間、甲子園で1勝するのが精一杯で、昭和後期から平成前期にかけて、専大北上や盛岡大付属などの私立校が台頭、群雄割拠の時代が続きました。平成21(2009)年春の甲子園で菊池雄星擁する花巻東が岩手県勢で25年ぶりの春1勝ををするだけでなく準優勝を獲得しました。その後は花巻東の名前が全国区になり岩手県の高校野球史を変えました。
花巻勢の甲子園全成績(春・夏)
●花巻東(花巻商) :通算21勝17敗(勝率 57%)
●花巻北 :通算3敗(勝率 0%)
●花北青雲(花北商):通算1敗(勝率 0%)
花巻東高グランド横のモニュメントの手形
花巻の高校野球の懐かしいエピソード
(1)花巻北高校
昭和35(1960)~昭和45(1970)年代 甲子園3回出場
①三沢高校(投手 太田幸司)と対戦
甲子園初代アイドル 太田
昭和43(1968)年、秋季東北地区大会で岩手代表の花巻北は、1回戦で2年生投手の太田幸司擁 する青森代表三沢高校に惜敗しました。次の年、三沢高は北奥羽大会で岩手県勢を破り 夏の甲子園に出場。決勝まで進み、松山商業と延長18回、引き分け再試合は語り草・伝説の試合でした。。
②昭和46(1971)年夏 全日空機雫石衝突事故
この年花北高は夏の県大会を勝ち抜き、北奥羽大会に出場するために盛岡での練習中、事故の衝突音を聞き煙も目撃しています。162人が死亡した航空事故のため北奥羽大会の テレビ中継は中止になりましたが、花北高は北奥羽大会を制して3度目の甲子園出場を決 めました。
③8回日没コールドゲームの混乱
昭和57(1982)年夏の県大会3回戦、第4試合での相手は古豪福岡高校。前の2試合がそれぞれ 延長戦だったので遅い時間に始まりました。8回裏の守備では福岡高の打球が捕球できな いほど暗くなり逆点された混乱の中、8回日没コールドで花巻北が敗退しました。 野球関係者や野球ファンからの批判の声があがり、試合運営の見直しが図られました。
(2)花北商業(現・花北青雲高)
昭和51(1976)年甲子園出場1回
昭和41(1966)年に花巻北高校の石鳥谷分校(商業科)が設立。昭和48(1973)年に分校の 野球部が創設されました。花巻北野球部の商業科の主力選手が分校チームの部員になり、 昭和48(1973)年春季岩手県大会花巻地区予選で、石鳥谷分校は花巻北本校と対戦して本家に初勝利し、3年後の昭和51(1976)年に夏の県予選大会を制して甲子園初出場を決めました。
<広島で原爆を経験。被爆の苦悩を学ぶ〉
斉藤政一氏(まさかず) 岩手県被爆者団体協議会名誉会長。平成30(2018)年度花巻市教育文化功労賞受賞。 花巻市在住。大正13(1924)年生まれ。
昭和20(1945)年4月から旧日本陸軍の船舶通信隊の陸軍少尉として広島市で勤務していたころ、8月6日、爆心地から1.8km離れた兵舎で被爆しました。一緒に居た400人の隊員のうち生存したのは38人だけでした。自身も全身焼けただれ、割れた窓ガラスの破片が突き刺さるなど瀕死の重傷を負いましたが、命をとりとめました。 以後、当時の広島市の様子や自らが体験したことを通じて、平和の大切さ、被爆者救済、核兵器廃絶のため、日本国内のみならず、海外においても多数講演を行うとともに、非核平和を求める活動をしています。 平成29(2017)年12月、ノーベル平和賞を授賞した「核兵器廃絶キャンペーン(ICAN)」の関連行事として、現地の平和団体が主催したパレードに被爆者20名の一人として東北地方から唯一参加しました。
被爆体験を語る斉藤政一氏
「ウーン」って飛行機の音がする。連続して鳴るもんで「何だろう」って思ってね、窓から顔出して見たら、敵機が空の上にキラキラ光ってね、白い落下傘が3つツーと降りてきたんですよ。「あっ、またいつもの宣伝ビラだな」と思った瞬間にグワーッて光り、机の上にある金魚鉢が沸騰して「ウン」と盛り上がって辺りが全部真っ赤になっちゃったんですね。そしたら「パカーン」と瞬間的に着ているものから何から皆無くなっちゃってね。ズボンだけ残って、こういうふうに全身焼けただれてしまったの。これ、このピカピカ。人間の体は熱湯に落としたトマトと同じでね、全身皮がむけてしまう、そういう人たちが何十万と出たわけでね。
被爆した兵士たちと家族の人生
斉藤さんは原爆投下直後から救援活動を指揮しました。疲労と空腹で失神し、遺体と間違われて火葬されそうになりました。戦後岩手に帰郷したが、被爆した体では思うように働けませんでした。原爆の風評被害で自死した同郷の戦友もいたそうです。
今も痕があるけど、首筋に木材の破片が刺さってね、もうめちゃくちゃなわけですよね。その場で失神してはしばらくして立ち上がり、建物が何度も崩れてきて何回も失神を繰り返してね、ようやく外にでた。それで、とにかく僕は週番士官だから「集まれ」と言ったら、400名いた兵隊が38名しか集まらないんですよ。 何とか隊がある山に行かなければと、私自身が負傷していて、軍刀を杖についてこう歩いていたら、「誰か刃物はないか、刃物はないか」と叫んでいるおばあさんがいるんですよ。たぶんその娘さんが赤ん坊を産んでいるわけです。そしたらへその緒を切る刃物がないから。僕が軍刀を抜いてね、へその緒を切ってやった。
「東北へ帰る兵隊たちを指揮して各家に届けてくれ。」と、輸送指揮官を命じられてね。その時は僕はまだ全然治っていないわけですよ。東京都内に届けたり、負傷した兵隊も家までねと。ところが東京も空襲の後だから家がなかったりして。だからプラットホームに置いて行くなんてね。渋谷駅には3人だか置いて行ったりした。
この北上も空襲にやられて、めちゃくちゃなわけです。花巻は800件くらい焼けてますし。北上は大工場が爆撃受けて大変な負傷者が出て、医者も怪我した人がいて、薬とか包帯もないところに僕が帰ってきたわけで。こんな裸の格好で来るなら薬とか包帯をいっぱい持たせてよこすんですね。本当にだるまみたいな恰好で。僕は帰ってくるまで、14日で退院して、それから帰ってくるまで半月かかってますからね。本当に気力だけで、普通では考えられませんよ。
戦友がある日朝早く訪ねてきて、「親父が年取って弟や妹ら親子7人、俺はぶらぶら病で働けないから食べて暮らしていける道がない。これ以上暮らしていけないから、全部殺して私も死のうと思う。」「黙って死のうと思ったけど斉藤さんにはお世話になったから、一言お別れに来た。」と言ってきたんです。僕は、彼を一軒一軒連れて歩いて、「彼はこういうつらい状態にあるから、じゃがいも1個でも、ニンジン1個でもいい、ねぎ1本でもいいから恵んでやってくれ。」と。
花巻には約60人の被爆者がいたんです。「みんなで助け合おうじゃないか」と言って、被爆者の会を始めたのが岩手県で、日本で世界で一番早く被爆者の会を作ったんです。 自分がこんなにつらいから、その人たちに二度こういうことをさせたくないな、あってはいけないなと、結局「気持ちで励ましあっていくほかない」「生きられるだけ生きよう」と、自分のつらさが原動力ですね。 海外の大学とか教会で話ししたら、「一緒に叫んでくれ。ノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモア被爆者、ノーモアウォーと、戦争するな」と。一緒に叫んでくれまして。 今まで日本政府は「核廃絶条約」見送りですから。賛成とも反対とも言わない「見送り」どうですか?腹の中煮えくり返って、唯一の被爆国がやることですか。
未来への道しるべ
地域の歴史を知ることは、郷土への関心や誇りをもち、将来のまちづくりや社会改善につながります。生活する市民の視点から、地域の歴史を掘り起こし、広く市民に親しまれ、生涯学習や市民参画の機会に活用できるような活動をしていきたいですね。若い世代の方に関心をもっていただき入会してほしいです。