初めまして、新米ライターのまっちーと申します。
ついこの前25歳の誕生日を迎え、アラサーの門戸を叩いてしまいました。
神奈川県横浜育ちの生粋の浜っ子、東京に就職しましたが、
昨年の4月より2年間岩手県に出向することとなりました。
仕事と住まいは盛岡ですが、訳あって花巻市、中でも東和町の大ファンです。
今回は初めての投稿ということもあり、私と東和町が出会った際のエピソードを紹介しようと思います。
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私が東和に魅入ったのは、岩手県に出向してから2か月が経過した昨年6月2日のこと。
初めての地方勤務に戸惑いが隠し切れず、そして大好きな同僚や友達と離れ、
飼い主を失ったうさぎのような気持ちで過ごしていた。
そんなある日、「東和で、空き家となっている古民家の見学会を行った後、
山菜のピザパーティーをやるらしい。一緒に来ないか」と知り合いの方から誘われた。
せっかく岩手に来たのだから、色々な地域を知るべきだろう―。
おまけに、東和町には都会からの移住者が多くおり、
「東和農旅」という地域の交流活動も行われているという。
今回の企画も、東和農旅の活動の一環だ。
どのような町か気になっていたこともあり、行ってみることにした。
目的の古民家に向かうべく、車の後部座席に乗り込む。
東和に到着し出迎えてくれたのは、田植えが終わったばかりの若々しい緑の映える棚田。
こんなに美しい緑色の海は、見たことがない。
「わあ、すごい、こんなの初めて。こんなに美しい風景が、日本にあったんだ。」
思わず 子供のように無邪気にはしゃいだ。
役重眞喜子さんの東和町に移住してからの奮闘記「ヨメより先にべコが来た」には、
平成も初期の頃に役重さんが初めて東和町に訪れた際、黄金に輝く稲穂の波に心を打たれる場面が描かれている。
約30年の時を超えて、東和の棚田の前に息をのむ二十歳とすこしの娘は、今も健在なのである。
目的の古民家に到着した。文字通り古かったが、その広さに圧倒された。
東和の自然を感 じるには絶好の場所だが、その広大さゆえ、気軽に購入できる規模の物件ではない。
長ら くオーナー探しをしているとのことだった。
東京にいればもちろん、こんな家は見たことがない。
今は珍しい大家族の暮らした痕跡、 何代も前からの私蔵品が眠っていただろう蔵、
農家のいのちを繋いだ牛が暮らしていた牛 舎。何もかもが私の目には新鮮に映った。
傾きかけている日に照らされた棚田を再び横目にしながら、小高い丘に開設された山菜ピザパーティーの会場に移動した。
そこで待っていたのは、手作りのピザ窯と所狭しと並べられた山菜、東和の人々の絶えない笑い声だった。
「自家製の味噌サ、うんめえから生地に塗ってみて」
「東京から出るのは初めてか!んだば、来たとき寒かったんでねえの」
「これからも東和サ来て、楽しんでってけろ」
当時は名前も分からなかった人たちが、次々に声をかけてくれる。
「どうしてこの人たちは、初対面の私と、家族のように話してくれるんだろう。」
都会では初対面の人といきなり心を開いて交流するのはおろか、自分の車に乗せることもない。
アカシアの花をピザに乗せたりタンポポの葉をサラダにして食べることよりも、
まず東和町の「受け入れる力」に驚いた。 笑い声は尽きることなく、パーティーは日が落ちるまで続いた。
ピザと山菜とみんなの温かさで、おなかがいっぱいになった。
帰りの車中で、さっき出会ったばかりのはずの人に、こう言葉をかけられた。
「あなたはもう、東和町民でしょ?」
「東京から来たお客さん」だった私が、初めて「こちら側の人」になれたような気がした。
暗闇の後部座席で、誰にも気付かれない涙が流れた。
「なんだ、私がいるべき場所は、ここにあったんだ。」
光まばゆい棚田に、初めて来たのにおかえりなさいと言わんばかりに迎えてくれるみんな。
生まれ育った都会を離れてさまよっていた私が、初めて岩手で見つけた居場所。
残念ながら仕事の関係で盛岡から移住はできないが、ここから私の心の住所は「東和町」となった。