まきまき花巻行きたい「農業」という宮沢賢治の根っこ 〜石鳥谷肥料相談所跡〜
「農業」という宮沢賢治の根っこ 〜石鳥谷肥料相談所跡〜
86 まき
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宮沢賢治の作品のなかでも、農業のことに触れた時に一番に思い浮かぶのは、

〔あすこの田はねえ〕だと思う。

私は2018年秋に花巻に移住した。この〔あすこの田はねえ〕は埼玉県で暮らしていたころに、朗読音源でひたすらに聴いていた時期があったのだ。賢治は”未来を幸福にするのは君たちのようなひとだ” と感じていたんだなぁ、と思いながら何度も何度も聴いていた。何よりも、「このひとはなんてやさしいまなざしでこの子どもを見ているんだろう」と。

 

 

石鳥谷肥料相談所跡を訪ねて

 

花巻市石鳥谷町。花巻に移住してから何度か仕事で訪れることはあったけれども、宮沢賢治を知りたくて訪れたのは初めてだった。以前この町の商店街を取材した時に「賢治が好きなら絶対に訪れた方がいい」と教えてもらっていた場所だったのに、あれからずいぶん時間が経ってしまった。

JR東北本線石鳥谷駅から東に200メートルほど歩くと、国道旧4号線に出る。そこから、南に歩いていくと花巻商工会議所(石鳥谷支所)の斜向かいに、「石鳥谷・宮沢賢治塚の根」という看板のある建物が目に入る。どうして塚の根なのか?という疑問が湧いた方は、中に入ると説明が書いてあるので訪れた時にぜひ見てほしい。石鳥谷の町の歴史も知ることができる。

ここには賢治が生前に農家の人たちのために肥料相談に無償で応じていた、「石鳥谷肥料相談所」があった。

 

▲賢治が肥料設計所を開設した当時の建物(施設内展示を撮影)

▲6年前に社会福祉法人「花巻東雲会」(だんけ胡四王) の創業者照井潔子元理事長が私財で復元・活用されている。

 

今回お話を聞いてきたのは、ここを管理されている菊池善男さん(以下善男さん)。

善男さんのお母様のお兄様にあたる菊池信一さん(以下信一さん)は、賢治が花巻農学校で教師をしていた頃の愛弟子だった。

賢治を伝えるうえで大切な要素は「農業」だと善男さんは語る。

岩手の北上川西岸の土壌は酸性のため、石灰などの肥料を使い土壌改良をする必要があった。賢治は盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)で、のちの日本土壌学会の会長・関豊太郎教授のもとで土壌学や地質学を学んだ。そして故郷花巻で花巻農学校の教師となり、生徒たちに体全体を通して教え、晩年に至るまで、農民として生きるひとたちのために力を尽くしたのだ。

信一さんもまた賢治の教えから花巻の農業に尽した1人で、昭和3年3月15日から1週間、石鳥谷肥料相談所開設に尽力し、賢治の助手を務めた。

▲善男さんの伯父の菊池信一さん

▲左後列から五女の葉さん、四女の盛子さん(善男さんのお母様)、三女の梅子さん。後列5人目が信一さんのお父様の善五郎さん、7人目が次女のユキ子さん。前列が左から信一さん、信一さんの長女の慶子さん、信一さんの奥様のやよさん。

 

昭和8年に賢治が亡くなったのち、昭和11年「宮沢賢治詩碑」建設委員会が設立。発起人として信一さんもメンバーに加わった。その翌年昭和12年7月、信一さんは日中戦争で中国に出兵し、その年の12月、28歳の若さで亡くなった。

 

 

 

 

 

 

 

実を言うと、私は信一さんのお名前をずっと以前から知っていた。花巻市矢沢にある宮沢賢治記念館に訪れ、展示を見ていた時に〔あすこの田はねえ〕の資料の中に、「菊池信一」という名前が記されていた。賢治の農学校時代の教え子の方かなとは思っていたが、なぜかその後もずっと心に残っていたのだ。

 

 

くるみの森での出会い

 

信一さんの甥である善男さんと初めてお会いしたのは、今春、花巻市上小舟渡の宮沢賢治ゆかりの場所「イギリス海岸」を散策していた時のこと。遊歩道沿いにある休憩所「くるみの森」の前を通りかかった時、お花の移植の作業をするためにくるみの森に来ていた善男さんと会い、お互いの賢治好き話に花が咲いた。その時にぜひ取材をさせてほしいと頼んだところ、快く引き受けてくださったのだった。

 

 

 

賢治への関心の高まり

 

善男さんは宮沢賢治学会イーハトーブセンターの元理事、宮沢賢治研究会[東京]元役員、宮沢賢治・みちのく交流会代表世話人、東北農民管弦楽団・後援会事務局長、石鳥谷宮沢賢治塚の根、イギリス海岸お休み処「くるみの森」など、数多くの場で活躍されている。

 

善男さんは昭和18年に、旧稗貫郡石鳥谷町(現在の花巻市石鳥谷町)に生まれた。賢治は昭和8年に永眠しているので、その10年後ということになる。昭和37年、都市銀行(現:三菱UFJ銀行)に就職。大阪、京都、名古屋、東京など県外勤務をし、定年後しばらくして埼玉県から帰郷した。

 

関西で勤務していた頃「私は岩手県の生まれです」と勤務先で言うと、「岩手と言えば、宮沢賢治ですね」と返された。

その言葉に、善男さんは県外での賢治へ関心の深さに驚いた。当時、地元の花巻で「宮沢賢治」という人物に関心を持つひとは少なく、今のように学校の授業で扱われることはあまりなかった。むしろ地元では「変わり者だった」というイメージが強かったようだ。「当時はそういう時代だったんですよ」と語る善男さん。

もちろん、自身の伯父に当たる人物が賢治の愛弟子だったということも知らなかった。その事実を知ったのは40歳になってからだったそうだ。昭和30年代から筑摩書房版「宮澤賢治全集」が出版され、全国に賢治の作品が広まってきた時代だった。そして現在も賢治を題材にした書籍は、毎年数多く出版されている。

▲石鳥谷肥料相談所跡に関係が深い、賢治作品「三月」が飾られ、本棚には「宮澤賢治全集」の他に多くの賢治関連の本が詰まっている。

 

 

自分の生まれ育った花巻から遠く離れた地で、賢治のことを知らない自分が恥ずかしくなった善男さんは、それから取り憑かれたように必死で賢治のことを勉強した。その後に東京に転勤したのち、昭和63年に「宮沢賢治研究会」に入会。そこで賢治に魅せられた多くのひとたちとの交流が始まったのだった。

 

 

 

賢治作品の庭へ

 

善男さんのとっておきの庭を見せてもらった。

そこは、石鳥谷肥料相談所跡の向かいにある善男さんの実家。信一さんが生まれ育った家の分家にあたる。

暖かい昼下がり、庭の植物たちはいきいきと精気に満ちていた。日のあたる場所には、水仙やチューリップ、芝桜や鈴蘭、まるめろ、ぼけ、やまなしの木。日陰には、可憐なすみれやカタクリ、二輪草、山吹が咲いていた。植物好きで賢治の作品を読み込んだ私にとって、ここはまさに夢のような庭だ。

 

ここにある植物の一部は、東日本大震災の時に陸前高田市の方たちが植えていたものを、土地のかさ上げをするタイミングで引き取り、移植したとのこと。

イギリス海岸のくるみの森で会ったときに移植していたすみれやすずらんもここにあった。なかでもすみれは様々な品種が植えられていて、私はとても好きになった。日陰に咲く花は奥ゆかしくてかわいい。

 

 

 

 

宮沢賢治を伝えていくということ

 

科学、芸術、宇宙、宗教、農業など、賢治作品には様々な要素が詰まっている。しかもそれは、学術的な根拠や理論などに基づいて書かれているのだ。詩人・童話作家としての文系のイメージが強い賢治だが、科学・宇宙などに精通する理系のひとであったという見方も多い。

賢治のすごいところは、自分が得たり考えたりした知識を研究論文などの形ではなく、「心象スケッチ」や「童話」などの文学で表現したことだ。

 

もうひとつ目を向けたいのは「賢治に影響を受けたひとたち」である。

賢治の教えを守った1人は、山形県最上地方きっての旧家の総領息子「松田甚次郎」だ。賢治から「小作人たれ、農民劇をやれ」との教訓を受け、実践し尽くした。その活動記録「土に叫ぶ」はベストセラーとなり、昭和14年に発行された、松田甚次郎編「宮澤賢治名作選」も全国で注目を集め、賢治作品の普及に貢献している。

県内では、賢治が教べんをとった稗貫農学校に隣接していた、花巻高等女学校の教師時代に文学や音楽などで賢治と深い交流があった藤原嘉藤治。賢治の生き方を実践する為に戦後帰郷し、開拓農民として生きた。彼を始め、地元には他にも多くの農民に賢治の影響が見受けられる。

そして本や資料などの記録の中に残っていない、名もなきひとたち。当時花巻を生きたひとたちの厳しい現実を歴史として知ることは、賢治の作品を理解していくうえで大切なことだ。

賢治が亡くなってから80年以上が経った今も、彼が残したメッセージに引きつけられたひとたちが、花巻を訪れている。そのひとたちの中にはどんな賢治がいるのだろう。あるいはその時その時、自分の中で変化していくかもしれない。

 

 

「賢治は日本に永く続く不況、加えて冷害・旱魃(かんばつ)に遭い、さらには世界恐慌にも襲われる時代の疲弊した農村の中にいました。

そのような時代にあって賢治は、花巻農学校教師、羅須地人教会、晩年の東北砕石工場(肥料用石灰)技師の各時代を通じ、農業指導への情熱を傾け尽くしたひとだったと思います。

大切なことは、賢治の作品・メッセージから何を受けとめ、それにどのように向き合っていくかでしょう。

〈イーハトーブ〉は岩手県だけを指すのではなく、理想郷はボーダーレスで何処の地にも創ることができるという時代に向かっているようです。」

 

そう語る善男さんの、まるで敬愛する師を想うかのような顔が忘れられない。

 

 

 

〈参考文献〉

●サムライ・平和 第11号(2018年2月8日)

発行:一般財団法人山波言太郎総合文化財団(鎌倉市)

●新版 宮沢賢治―素顔のわが友―(1942年9月8日 初版発行)

著者:佐藤 隆房 

 

 

私が書きました
塩野 夕子

2018年9月、宮沢賢治が好きすぎて埼玉県から移住してきました。
まきまき花巻編集部と市民ライターの二足のわらじで活動しています。
現在は宮沢賢治記念館に勤めながら、大迫町の早池峰と賢治の展示館・2階にある「賢治文庫」も管理しています。アパートで猫とふたり暮らしです。