まきまき花巻体験したい味噌と唄と曲がり家と
味噌と唄と曲がり家と
246 まき
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2月23日、この日は東和町へと帰る日。幾度となく帰っている東和町だが、いつも新しい出会いと発見が待っている。

暖かい空気の中で春の訪れを感じながら、私は東和町谷内地区にある「旧小原家住宅」へと足を運んだ。人の住む母屋と馬を飼育する厩が合わさった、昔ながらの農民の歴史をたたえた南部曲がり家である。「東和農旅」のツアーで何度となく訪れていたが、この日は到着するなり、もうもうとした煙の匂いが私の鼻をつついた。

旧小原家住宅

 今日は、樽いっぱいの4kgもの味噌を、ここで一から造るのだ。

 曲がり家に入りまず目に飛び込んだのは、原料となる大豆…ではなく、こたつとネギと甘酒の鍋だった。
 「まんず、これでぬぐだまってけろ」
 と言われるがままに、こたつの中に足を滑らせ、甘酒をすする。そして、机の上に並べられたバリエーション豊かな味噌たちを、輪切りにされたネギと共に味わう。おから味噌、ばっけ味噌、黒豆味噌…どこでも口にできるわけではない、農民だけのぜいたくだ。

味噌

こたつとおしゃべりでほっこりとぬぐだまったら、いよいよ味噌づくりの始まりだ。
 目の前に用意されたのは、粒立ちの立派な大豆の山。これを足の裏で、原型がなくなるまで一生懸命に踏みつぶしていく。

まんべんなくつぶすために大豆の上をぐるぐる回ったり、ボックスダンスをしたり。すると豆は順調に潰れていくが、目が回ってくる。
 そうこうしていると、今度は木のバットで残った粒を叩き潰す作業がやってきた。日頃の鬱憤を腕に込め、力一杯に叩き込む。
 ダンスとストレス発散の成果は豆へと表れ、大きな粒は跡形もなく砕け散った。

叩き潰す作業

豆がペースト状へと進化したら、塩と糀を混ぜていく。小さな手を桶に突っ込み、ハンバーグの種を作る要領で一生懸命にかき回す。しかし、思うように塊は動かない。
 戸惑っていた私に、味噌づくり名人のお母さんの力強い腕のサポートが入った。するとみるみる、塩と糀の白い粒が大豆の中に溶け込んでいく。農家のお母ちゃんのたくましさには、毎度のことながら驚かされる。

味噌樽

 糀がすっかり馴染み手もすべすべになったら、お次は空気を抜いていく作業である。味噌を手のひらサイズに取り、これもまたハンバーグのように、両手のあいだでリズムよくキャッチボールする。
 調子に乗ってやっていると、
 「そんな高い位置でキャッチボールすると、味噌が飛び散るだろうが!!」
 と、厳しい指導が入った。
 少ししおれてしまったが、にわか岩手県民だった私が、農のあるくらしに本当に溶け込んでいくために必要な教育の一環だろう。

ここまで来たら、いよいよ味噌樽の登場だ。いくつかできた味噌ハンバーグを、樽の底へと敷き詰めていく。

すべての味噌を樽へと移し替えたら、表面を平らにし、菌が入らないよう塩でコーティングする。長期間の発酵が必要な味噌にとって、菌の侵入は命取りなのだ。

塩と糀を混ぜる作業

こうして完成した、自分だけの手前味噌。目が回ったり喝を入れられたりといった苦労もあったが、今日の日の楽しい思い出がたくさん詰まっている。そう思うと、愛おしい子供のようにさえ見えてきてしまう。

これから、どのような香りと味に成長していくのだろう。


 仕上げに、蓋に今日の日付を書いて終了、ではない。
谷内伝承工房館にて、食の匠の手によるかわいらしいひなまんじゅうが添えられた昼食を頂いた後には、「東和三絃会」の三味線による民謡の演奏だ。

三味線

西和賀町の藩政時代の物語を唄う「沢内甚句」や、多くの人に馴染みの深い「ソーラン節」。北のくらしに根付く唄が、弦をはじく軽快な音と力強い掛け声に合わせて流れていく。懐かしくも心地よい調子を、思わず一緒になって口ずさむ人もいた。
煙の香りの残る茅葺きの古民家で、味噌と漬物をつまみ、甘酒を飲んで民謡を聞く。五感から東和を吸収できる、なんという贅沢だろうか。


 「おもっしぇがったべ?」
 ともに味噌をつくった仲間たちと記念撮影を終えたとき、こう声をかけられた。
 「んだ、おもっっしぇがった!!」
 「はい、面白かったです」などとは、ここでは言えない。この自然と出てくる東和弁こそが、私の気持ちの精一杯の表現だ。

 つくった味噌は、熟成させたのち、11月頃に食べられるようになるという。
 味噌の味の深みが増すと共に、私の東和町に対する思いも、ゆっくりと醸成されていくことだろう。

 

私が書きました
まっちー

神奈川県横浜市出身。2年間の期限付きで、2018年4月から2020年3月まで岩手県に出向。現在は東京在住。ご縁あって花巻市、中でも東和町の大ファンに。