先日、俳人、歌人として名高い、正岡子規の自筆、雑記帳が発見されたとマスコミで報じられ、世の中には文人、文豪の遺留品が市井の片隅で、ひっそりと埋もれている可能性が明らかにされた。
たとえば当時、花巻でも宮沢賢治を始め、高村光太郎や新渡戸稲造など花巻ゆかりの文人、文豪の遺した超文化財的な、お宝が秘蔵されている。それを広く知って欲しい。
てなことで、花巻版お宝鑑定調査探偵、私、ア・ケチ・コゴロウがレポート報告します。
宮沢賢治先生から届いた2枚のハガキ
石鳥谷町五大堂の佐々木實(みのる)さん(故人)は花巻農学校時代、宮沢賢治先生に直接教えを受けた人である。賢治門下生では花巻農学校二期生に当る。佐々木さんは、卒業後、農業に従事した。その間、賢治先生は一度だけ家庭訪問してくれたが。そんな佐々木さんに賢治先生はハガキも贈ってくれた。一枚は年賀状。もう一枚は、佐々木さんが賢治先生の自宅を訪ねた際(賢治が)体調不良の為、失礼な応対をしてしまったとの、詫び状である。いずれも自筆という点、価値は高いのでは?
高村光太郎が文字彫刻したテーブル
東和町、小桜食堂所有。昭和20年~27年まで花巻・太田に住み暮らした高村光太郎先生。大の鮎好きであった、光太郎翁は、昭和21年9月末か、10月初め頃、猿ヶ石川から捕れる、天然鮎を売りにする小桜食堂に、フラリと立ち寄った。鮎の塩焼きなどに舌鼓を打ちながら食し終った後、さて料金支払いとなったのだが、アレ大変、少々お金が不足と。小桜店主は初見した時から「こりゃあ、正面(まとも)に料金はもらえねえべえな」と、それほど見窄(みすぼ)らしい姿格好の光太郎翁を商売人の勘で直感していたから「アアいいよ、安ぐ負げるがら」と返事したが。光太郎翁は「それでは僕の気持が済まん」とばかり、彫刻を申し出た。店主は仕方なく「そのテーブルにでも」と指示したのが、写真の代物。勇んで光太郎翁、“山静太古如 高村山人”と刻印した。このテーブル、高名な光太郎作品とは知られず、物置の隅に20年近く押し込まれ埃にまみれていた。
数奇な運命に、興味が尽きない。
新渡戸稲造の書とされる扁額(へんがく)
古民具さとう店で所有。「新渡戸稲造 吾忘我」と書かれている。教育者であり、政治家としても活躍された稲造先生。だが書家ではなかったゆえ、作品は残っていない。したがって、この扁額の真贋は謎である。